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秘密の扉

ひと時の逢瀬の後、パパとお母さんはそれぞれの家庭に帰る 子ども達には秘密にして

「やぁ、どうしてる?」
「あら、嫌われたんだと凹んでいたのに」
「ちと書類が沢山あるから忙しくなってきた
 俺に意見すると嫌われるぞぉ~マジでだ!!!」
「ただ、ちょっと顔が見たかっただけなの」
「無理強いされると怒る俺がいるね!」
「うん、わかった」
「だから生意気な女になるなよ、顔見たいんだったら、俺の好みの女になれよ」
俺様のご要望はどこまでも御無体だった。
「あれ、今どこから?」
「ああ、まだ出先でiPhoneから世話になってる所の無線LANにアクセスしてるんだ。
 door抱きたいなぁ」
「じゃぁ、チケットとホテル用意するから東京においでよ、それから決める」
「あんのんねん」なまりなのか、ふざけているのか彼の「あのね」はこんな風に聞こえる。
「俺、津波から逃げてからパニック障害になっちゃって乗り物とか人ごみとかもうダメなの。ドクターストップ」
「はぁ~~、しょうがないなぁ、うん、分かったよ
 じゃ、その分のお金義捐金ってことで送金するから口座番号教えて」
いったんそのつもりになって行き先のなくなった中途半端なお金を使ってしまいたかった。
「明日は帰ってすぐにお袋を歯科医に連れて行って…そのあとだな
 door抱いて良い?」

「台風来るから気をつけてね、土砂崩れとか 」
「国道で帰るから大丈夫」
「地震の後だから地盤が緩みやすいと思うから」
「door抱いて良いのか?マジで一度抱きたいけど…」
「ははっははは何でイキナリそこ?」
「笑うとこじゃないだろ、doorは嫌かい?素直に答えろ」
「逢いに行きたいって行ったのは私でしょ?
 でも徹ちゃんがなんだとかかんだとか…」
「けど、俺、金が無いから、かっこいい出迎え出来ない…
 だから会えないと…言わせるな…」
「そんなの分かってるからどうでも良いけど、
 それより徹ちゃんにその分のお金送ったほうが良いと思うんだ。
 気がすまないんだったらあとで、徹ちゃんの生活がちゃんとなったとき身体で返してもらうから。私が68歳になっても必ず返してもらう。腰もんで貰うことになるかもだけど
 今回はそうしよう」
「明日、俺が好きそうな下着でまってろ」
「なんか、会話がかみ合ってないんだけど、こっちに来れないんでしょ」
「 Hな徹は嫌い?」
「好きだけど、なんでいきなり~?」
「door、俺を好きでいてな!」

「いったいどうしたのぉ、本当の私は徹ちゃんの嫌いな生意気な女なんだよぉ
 いずれにしても口座番号が分かったらその場で振込みはするから」
「有り難う、感謝する」
「ひゃはは、そんな改まって。気にすることないって」
「笑うなよ。辛いんだから」
「何が辛いの?」
「金も仕事も無い辛さがある」

預貯金は家の修復とその後の生活費に消えているのを知っていた。母親の年金があるからと、仕事のプール金を仲間で分けたとき、自分の分は辞退してたらしい。どこまで本当かは分からないけど。彼の美学から言うとそうなのだろう。

「まぁ、こんなときだから当然だと思うし、私自身自分で使っている電気の原発を福島に置いといて、そのことにずっと無関心で、こうなった今も何も出来ないことに対する負い目を少しでも少なくできる。そういうことだ」
「頭良いんだな」
「さっきから会話がどうもかみ合ってないけど、大丈夫?疲れ過ぎてない?
 まぁ、ともかく気楽に徹ちゃんが自分のことを考えてさ」
「ボランティアに来てる今は、被災民が先だよ。俺は最後で良い!」
「そういう風な男気が好きだけど…」
ちょっと違うんだよなぁって言葉は飲み込んだ。また怒られる。

「台風気をつけるんだよ、気圧の変化でまた地震があるかもしれないし」
「有り難う、気をつけて帰る。俺の好きそうな下着でいろよ」
なんだか最後まで会話がかみ合わなかった。大丈夫なのかなぁ、この人。


「こんばんは」ポップ音がした。
「いいよ、今ゆっくり話せる」
「風邪引いたみたいだ。熱がある」
「もう、無理ばっかりするからだよ」
「服脱いで」
「?」
「下着になって」
「え?ここで?今?」
「こっちに来るつもりがあるんだから、見せてくれても良いだろ」
「あ、俺の好きそうな下着ってそういう意味だったのね」
昨日の会話のかみ合わなさがようやく理解できた。
「え、じゃなに?私PCの前でストリップすんの?」
「そう」
眼からボロボロと涙が出てくる。早かれ遅かれこのやり取りは起こることで、だから私たちは合わない。傷の浅いうちで良かったのだ。頭はそれでよかったが、まだ浅いはずの傷は思いのほか大きく戸惑った。画数の多い「嫌い」の文字が私を全否定してくる。泣いて泣いて眼が腫れた。

四角い枠で切り取られた小さな画面で、こんなにも魅せられてしまう。相変わらず私は極端で思い込みが激しかった。一時は随分大人になったと褒めてやりたいぐらいだったけれど、全然変わっていない。そのことも悔しさに拍車をかけた。情けない。情けない。情けない。
せめて一度くらい逢ってみたかった。溢れてくる涙は傷口から出る真っ赤な血で、いつまで経っても止まらなかった。自分自身のコントロールを完全に失って、まるでテレビで見た津波に押し流される車のようだった。私の意志も都合も全て押し流していく津波。何もかも奪って破壊し尽くしていく津波。

「徹、ごめんね。もうそんなこと言わないから機嫌直して
 ホントはそっちに逢いに行きたいぐらいなんだ」

「それってHでもする気かぁ」
「や、別にそこまでは」
「いいよ、ここで。ここで話そう」徹は何だとかかんだとかグズグズと理屈を捏ねていた。
「逢いたくないんなら仕方ないけど、なんか変な妄想みたいになっているのが困る。顔が見えないと、さらに倍増する。だからカメラをつけて欲しいんだ」
「明日な」


翌日彼は早朝にボランティアに向かい、
「早く出ることになった。また来週ね、ごめんよ」というメッセージが残されてた。


私はノイローゼと一緒だった。いい年をして痛々しい自分に腹も立つ。何もかも上の空で、仕事は中途半端で間違いばかりしていた。何一つ完成しなかった。計画は全て先延ばしにされた。何でも良い。とにかく元の平静な自分に戻りたい。



折り良くたかしからメールが来た。
「身体の具合はどうだー」
「いろいろあって…云々」
「何?そんなに悪いのか」
「だけどだいぶ良くなったから大丈夫」
「これから顔だけ見にそっちへ行くー」
夕方だった。
「今から来られても困る。明日にしよう」
「明日は都合が悪い、もう家を出ちゃった。いつものファミレスで」
「ちょっと戻って、そんな食事時の近所のファミレスは地雷原だよ」
「戻らないー」
「ホント困るんだ」
「そっち行くー」
これも違ったタイプの俺様なのかもしれなかった。仕方なく急いで夕食を作り
「ちょっと友達に誘われて飲みに行くから。すぐ戻る」と、家を出た。

それでもいつものようにたかしの胸に顔を埋めるとホッとした。しっかり抱きしめてもらってたくさんキスをして、まだきちんとそこに思いがあることを確認した。そうだ私はこの安らぎが欲しい。そしてそれは確かにあった。明日も、ひと月先も3ヶ月先もあるだろう。

ごめん、たかしちょっとだけ。この津波が収まるまで。仕方がないじゃない、地震なんて地球の都合で勝手に起こるんだし、海の中で起きれば津波になる。
だけど津波は全てを破壊して飲み込んでいった。本当に大丈夫か自信がなかった。



2011年7月27日 (水)におこなわれた衆議院厚生労働委員会より、児玉龍彦氏(東京大学先端科学技術研究センター教授 東京大学アイソトープ総合センター長)の発言部分

次の日徹はなぜだかカメラをオフにしていた。
「やっぱり顔が見えないと、話しづらいな、カメラ、オンにしてよ」
「PCからカメラ外したから」
「USBで差し込むだけでしょ」
「面倒」
「ケチ!バカ!」
「ムカツク、それじゃ」
「 意地悪」
カメラなんてなくても話が出来るのに、彼の童顔がどうしても見たかった。少しでも大人っぽく見せるために少しだけひげを生やしているその顔。私の気持ちは余りにも大きくなってきて、安定を欠いていた。これ以上の自分の変化は受け入れられない。落ち着いた元の暮らしに戻りたい。

その前に、彼への説得が残っていた。
原発周辺被災民への非難、作物を作り続けている人への攻撃をやめさせないとならない。

「私たちはそんなこと知らなかったから徹ちゃんがそういう現実を教えてくれて感謝している。だけど、それをそのまま発言しても、徹ちゃんが非難されるだけで、周りは支援する気を無くすんだよ。だからもっときちんと練り上げた、ちゃんとした意見として発表してみたら?
まとまった文章が苦手なら私が手伝うよ。このことが、きちんとメディアに載らないから誰も理解できないし、中傷に映るんだよ。とりあえず農家と優遇されている被災者への非難だけでも抑えて、中通りへの支援の足りなさや悲惨さだけを訴える形にしたほうが、いくらか福島の状況が良くなると思うんだけどね。気持ちは分かるけど戦略的にやらないと現実は何も変わらないよ」


話すと遮られそうだったから、文章にしてスカイプにべったりと貼り付けた。
丸一日経っても返事はなく、私は彼と話せないことに再びパニックになった。
聞き入れてもらえなくてこれきりになったら、全て終わる。いくらか辛いだろうけど、どうせ一時のことで終わらせるはずだった。聞き入れてもらえるのだとしたら、いくらかでも物事が動く。そう考えたはずなのに慌てている。

会話していても、いつも自分の話ばかりで、私の話はちっとも聴いてない。徹はいつでも俺様でわがまま全開だった。そんな子供っぽいところまで可愛いと思ってしまうのは完全に好きになってしまっているからで、最終的に私達が上手く行く見通しは全くなかった。この何年かで随分調整して世の中でやっていけるようにしたけれど、一皮剥けば私だって「アタクシ」な人間なのだ。互いに強いキャラクタを持つ凸と凸ではぶつかるばかりでやっていけない。逆にたかしと上手くいくのは私の凸を上手くあやしたりいなしているせいだともいえる。消したメッセージはそのことを書いていた。

ようやく丸一日経って返事が来た。
「俺はどうなったって良いんだよ。それで誰かが助かるんなら」


「そういう話じゃないでしょう。徹ちゃんだって攻撃され続ければ凹むでしょう。周りだって嫌な思いする。そこを抑えて発言しないと、現実が動いていかないのよ。状況がよくならなくちゃ無意味じゃん」

「俺に意見するなよ、可愛げのない女だな。そういう女は嫌いだ
 上から物言われんのと、意見されるの、そういうの俺大嫌いだから」
「お帰り、久しぶり。どうしてた?」
金曜日から沿岸部へボランティアに行っていた徹が、中通りのPCの前に戻った。それまで殆ど毎日話していたから、寂しさが募っていた。
あの強烈なエネルギーに常に触れて居たかった。日曜日に彼に中毒していることに気が付いて私は混乱した。彼が読むはずのないスカイプにメッセージを重ねては消した。
完全に妄想のように取り付かれている。
こんなことは現実の彼を見ていないからで、リアルな関係ならおそらく起こらないことだ。携帯メールの一通、声が聞きたければ電話でもいい。



私がたかしを愛しているのは、現実のことだった。特に慌てて逢う必要もなく、忙しいお互いを思いやっていた。
前回のデートで郊外へ出かけた後、デイユースのホテルの一室で私はぐっすりと眠りこけた。思っていたより身体は限界で、眼を覚ますとたかしは苦笑いをしていた。
「あ、寝ちゃった、ごめん」
「doorは疲れているんだよ」
たかしは週末の誘いのメールも寄越さなくなった。それは私に負担をかけない配慮でもあったけど、女心としては少し寂しい。確かに震災以来、私の睡眠時間は異常に長くなり家の中のことは最低限、予定のない休日はひたすら寝ていた。


「今日で4ヶ月だけど、何も復興されてない
 瓦礫が撤去されただけで、何も先に進まないね」
「徹ちゃんは引っ越さないの?」
「総理も原発収束には数十年かかると話した通り、先は見えないね。俺は41だから、ここで楽しんで生きるよ
 義援金も何も保証が無いけど、避難先も無いし。
 3月には疎開先探したけど、行政は動かないからね。
 県知事が県民見捨てたようなもんだから、あの県知事にならなかったらここまで大きい被害にはならなかった。原発プルサーマル計画推進派の県知事で、再稼動させた矢先の大地震だから。福島県は終わったと言っても過言では無い」
「東京で見ていても、そう思う」

「内部被爆した県内の子供は、早ければ来年には症状が出始まるらしいよ。今の原発、何処まで本当の事を話してるかわからないからね。正直に話すとパニックが起きるから隠したって、先日国会で話したでしょ。放射能濃度の数値も、風通しの良いとこでの数値だし、友達の会社で買ったガイガーカウンターの数値と全く違うからね。
郡山市内の子供が7700人疎開したんだよ。産婦人科も混んでるよ」
「それってやっぱり」
「妊娠しても産んだら危ないでしょ。だから堕胎だよね。水素爆発したあの日に県民の大半は被爆したんだと思うよ」

言葉が出てこなかった。こんな酷い事故はどこか遠い国で起こることで、日本では起こらないと思い込んでいた。いくらこれは現実なのだと言い聞かせても東京で暮らしている限り、現実感は生まれなかった。

「doorちゃん、可愛いな。本当の名前教えて」
話がポンポン飛ぶ彼は突然そんなことを言い始めた。
「や、それはやめよう。悪いけど、私ちょっと徹ちゃんのこと好きになりかけてる。本名で呼ばれたら、現実との境界線がなくなってしまう」
「別に境界線とか意味ないじゃん、ほんとの名前を呼びたいだけだって。苗字まで言わなくて良いんだからさ」

境界線とはなんなのか言っている私もよくわからなかった。私は今の自分の現実に満足していた。本名で呼ばれたら、これ以上徹を好きになったら、たかしとの関係がおかしくなってしまうような気がして渋った。
しかし何度も押し問答があって、私はついに名乗った。
「だけど、今までどおりに呼んでほしい。頼むから」
「よくわからんな
 2面性持つ女性になるぞぉ」
「私は2面どころじゃないんだ」
口の中で2.3回私の本名を転がして、それでも彼は今までどおりに私を呼んでくれた。
名前は単なる象徴で、もう垣根は殆どないに等しかった。
ひと月以上逢ってないたかしと、スカイプで毎日話してる徹はどちらが私にとってのリアルなのだろう。

翌晩、点けっぱなしのPCからポップ音がした。
「夕食終わった?」
「うん、今日は鮭とポテトサラダ、キャベツの浅漬け」
「良いねぇ~俺は今夜ラーメンライス
明日は中華そうめんにしようかと、簡単だからお勧めです!」
もう少し栄養のあるものを食べて欲しかった。

「冷やし中華とは違うの?」
「味は冷やし中華のゴマ味だね!麺つゆと、ごま油、 砂糖に 酢、すりゴマ これさえあれば簡単に出来る」
「お母様が作ってくださるの?」
「俺だよ、俺が夕食当番、趣味が料理だから」
「わぉ!それはモテる男の第一条件だ!」
「お袋よりいい道具持ってるよ、和包丁は三条燕のと、京都の包丁」
「関じゃないのかっ」
「関は最近ステンレスになってきたんだよね
 古いお店で売れ残り買うんだよ、昭和レトロの包丁は素材が良いから切れるんだ」
「私はステンレスの万能包丁だけど」
「震災前まで釣りしてたから和包丁が必要なの」
そこから延々釣りの自慢話が始まった。釣り好きが高じて船の免許も取ったのだという。

たかしのことが頭を掠めた。今年の初めから私たちはすれ違ってばかりいた。釣りに連れて行ってと頼んだが、どうしても私達の予定はタイミングが合わなかった。たかしの雑用は日曜日を中心に入っていたし、私の用事は殆ど土曜日だった。年月の経過とともに何かしっくりと落ち着きすぎてしまったきらいもある。お互いの心が離れたわけではないと、今の今まで思っていた。
その隙を突いて徹という単なるエネルギーの固まりだった人が顔を持ち、過去を持ち、次第に立体になって私の前に生き生きと描き出される。私何やっているんだろう。
たかしが控えめな笑みとともにぼそっとつぶやく言葉の百倍のスピードと量で私を圧倒していた。

「徹ちゃん、海流の関係で千葉産のカツオなら大丈夫だよね」
「俺も喰ってる。500キロ沖合いで操業してるからOK」
「もう反対側の海に行かないと釣り出来なくなっちゃったね」
「うん、もう日本海に行かないと食べられない」
食べられない魚を釣っても意味がない。同様に彼は福島で野菜を作り続けている人々まで攻撃していた。生まれたところの人々を攻撃しなければならないなんてどんなに辛いだろう。なぜこんなことになってしまったのだろう。

話は中華そうめんの作り方に戻り、なぜか麺類の話になった。
「蕎麦は…江戸っ子ですからこだわります」
「俺も蕎麦は相当うるさいから話さない」
「たぶん蕎麦の話をするとけんかになると思う」
「じゃパスタにしよう、俺はどんなイタリアンでも作れます!」
「そ、それは結婚して欲しくなるぞ!」
一瞬言い過ぎたかと思った。

「ギャハハハ
 いいなぁ、そうなったら毎日Hするぞ、寝かさないぞ」
「バカ」

いくつも病気を抱えた身体からは信じられないぐらいのエネルギーが放射していた。私はその虹色の光に魅せられ、引き付けられた。昔私もこんなだった。光り輝いて眩しかった。結婚して欲しいはもちろん言い過ぎだったが、確実に魅了されていた。

「ねぇ、福島があんなことになって今どういう気持ち?」
こんな残酷な質問が出来るのは、彼が本当のところを見極める強さを持っていたからで、他の人にはこんなことは聞けない。

「なくなり行く福島を待つだけって気持ちだよ、復興は無い」
絶望に寄り添いたかった。

「あれ?doorさん、こんな時間にPC起動?」
スカイプが自動的に立ち上がり、ポップ音が聞こえた。
「えぇ、一日終わってちょっと寝る前にチェック
 結局いつも ちょっと、じゃすまないんだけど…
 こんばんは、挨拶が後になってしまって」
「こんばんは」
「今ネットニュース見てて、松本復興大臣の」
「辞職ね。また復興が進まないって被災地はその話題で大変だよ」
「昨日はあんまり怒って眠れなかったの」
「誰が?」
「私よ。私が松本に怒ったの。普通怒らない?あんなの聞いたら」
「…9日で給料いくらかなぁ?」
「9日って何?」
「あの人が大臣やった日数」
想像もつかなかった。

世襲議員である松本龍が、今までどういう風に遇されてきたのか、周囲に対してどのように接してきたのか。その前日天下に明らかになった。
同和の問題は東京に住む私にとっては全く実感のない話で、身近に見聞きすることもなかった。だからこれが同和利権で生きてきた人間なのだと初めて実感した出来事だった。
関西のオジ様は彼を「穢多のお坊ちゃん」と評した。そのような表現は言葉としてはショッキングだったけど、おそらくその通りなのだろう。とにかく私は怒りに震え、その夜寝付けなかったのだ。被災地では余計に怒りが走ったことだろう。
9日間は全く無駄になったことになる。何一つ前進しなかった。それは9日間だけのことだろうか…

「徹さんご家族は?」
「俺は×1」
「じゃ独身なんだ」
「自宅にはお袋いるよ」
「お子さんは?」
「もともと作らない条件での結婚だったから」
彼は自分の半生を簡単に語り始めたが、その襞も、そこにある思いにも触れなかった。彼の眼から見た彼の人生、彼の暮らしや考え方が簡単に私に理解出来るとも思わなかった。
「今後も作らないと思うよ、もう41だし…それで今は被災民」
そういって締めくくった。
「41じゃまだまだ男の人はいけると思うけど」
「ギャハハハ」

民主党政権が混乱を繰り返し、政局なんてくだらないことで時間を費やす。それが被災地から見てどのように映るのだろう。多く集まった義捐金すら殆ど手付かずのまま、時間だけが経過していく。個人的には菅内閣は交代すべきだと思うが、あれだけのことがあったのだから、多少の判断違いや混乱は致し方ないのだろうと思う。
しかし被災地の暮らしは続いていく。半壊の家に住み、除染してもすぐに放射線濃度は上がり、県外の野菜を探し廻る日々。
その間にも余震は続き、半壊の家が、どの余震で全壊になるか。その時に命は大丈夫なのか、常にそういう恐怖とともに暮らす。
被災地ではあきらめと疲労が溢れているようだ。

私の目の前にいる徹はそれを代表していた。彼は生まれながらのエネルギーで諦めの代わりに怒りを持って、突然降りかかった災難に本音で果敢に立ち向かおうとしていた。

原発を受け入れたことで双葉町や周辺には雇用が生まれ、補助金も、手当ても入った。
しかし事が起こったとき、被害は驚くほど広範囲に及んで、地震そのものの被害の大きかった中通りは忘れ去られていく。彼らには原発利権はなかった。放射線量は30キロ圏の避難区域に迫る勢いでも、避難のための支援は何もなかった。

それでも徹は週の半分を沿岸部で過ごし、瓦礫撤去のボランティアをしていた。
「もう匂いが酷くて県外のボランティアなんて来ねぇんだよ」
徹はあまりにも真っ直ぐな発言でひんしゅくを買っていた。
「俺は福島産のものは食べない、知り合いにも食べるなといっている」
「原発周辺被災民は人間のクズだ」

会津など放射線量の低い地域のものまで「福島産」と括られる。そういう雑駁さが、復興を妨げている。私はその現実をどうにかしたかった。
浜通り、中通りはもうダメだろう。しかし会津はまだ安全を保っていた。ダメなものはある程度の見切りをつけ、やっていけるところで支える、それが今回の復興だと思う。彼のように福島産のものは食べないと、言い切ってしまうのは少々納得がいかなかった。

原発周辺の被災民の多くは早々に避難を命じられ、県内周辺の温泉地で避難生活を送っている。そろそろ仮設住宅に入らなければならないだろうが、徹によると原発周辺の被災民は、元々原発があることで恵まれた生活を送っていたのだそうだ。

「俺は毎日6号線を通って通勤してたんだ。あそこの小学校は子供が転ぶと危ないからって、元々芝生が敷いてあるんだぜ。」

「避難するったって、どこ行くの。被災民受け入れ、就職の斡旋なんていったって、全部原発周辺の被災民だけだぜ。住まい、食費、全部ただで145万円も仮払金受け取って、会津の温泉地で朝から酒かっくらって大騒ぎして、他県から来た人が怖がってるんだよ。飲み屋、パチンコ、風俗に金が流れ込んでる。金がなくなったらまた東電強請れば良いと考えてるやつらだ」

そういう細かい現実を私は知らなかった。もちろん全ての原発被災民を彼のようにひと括りにして語るのも乱暴だ。状況や事情は個々にあるだろうに。

それに比べて中通りの被災者の現実は厳しかった。地震で建物の多くは壊れ、放射線濃度は高く、他県に移住するにも自費で賄わなければならないのだという。中通りに住み、仕事を南相馬に持ち、再開の目途も立てられない状況の彼からすれば、当然の発言だったのだろうが。

しかしそういう現実はどのように変えられるのだろう。彼のような非難の仕方では、動くものも動かない。そんな醜い現実は誰も聞きたがらなかった。悪いのは全て東電と国で、被災民はすべからく善意の被害者だ。外から見る私たちはそういう単純化をしてしまいがちだし、徹のような非難は復興を妨げる内輪もめに見える。

溢れる情熱を非難に充てるより、現実を建設的に動かすべきだ。彼にはその熱意があるのだから。私は懐柔を始めるため、間合いを図ることにしてスカイプを繋いだ。

「ど~も~」
耳に飛び込んできた柔らかなイントネーションに虚を突かれた。あまりに私の好みドストライクのこんな声は反則だ。画面の向こうに激しい発言から推し量った私のイメージとは真逆の照れた童顔があって、私は一瞬うろたえた。

「どした、あんまりいい男で惚れたか」
「や、福島の男がレベル高いのは知ってるから」
うろたえた表情を見られたに違いないが、私は取り繕った。
「一般論で語るな」
私の知っている限りの福島の男は皆それなりの顔立ちをしていて、惜しむらくは全員脚が短かった。画面の向こうの徹の脚の長さは知れなかった。どうなのだろう。

やり取りの中で私は中通りの菓子の名前を出した。
「○○が、食べたい。大好きだった」
「へぇ~、食べたことあるんだ」
「うん、もう亡くなったけど伯父さんが○○大学で教えてた」
「ウソ、俺そこに通っていた」

伯父の娘2人とも障害を持っていて働くことが出来ない。伯父の自宅を潰してアパートを建て、その家賃収入で彼女達は我が家の近所に暮らしている。おそらくそのアパートもじき住む人が居なくなるだろう。従姉妹たちの暮らしも成り立たなくなる。
とても経済的な面倒まで見きれないけれど、そのうちあれこれの手配は最終的に私がすることになるだろう。決して対岸の火事ではない、私にもプレッシャーがあった。

震災、そして原発事故が私達の暮らしを破壊していて、その衝撃からどう立ち直れば良いのか見当も付かないでいた。

これと同じこと7年前にもあった。それは不確かなデジャヴュではなく、確かに起こった出来事。未だに昨日の事のように鮮やかに思い出せる、全く同じシチュエーション。


相手を違えて同じことを繰り返そうとする私に、ビシャリと水を掛けたのは彼。
そう、前回は私だった。
7年の年を経て私も大人になったと思ったのに、全く成長していない。


確かに今の幸せを育んでいきたいと思う。それが私の選択。


それなのに
どうして心には隙間が出来てしまうんだろう。
どうしてそういう時出会ってしまうんだろう。


火傷しそうな情熱を冷ましてくれてありがとう。
「俺に意見するな、俺はどうなったって良い、誰かが助かるなら。」
だなんて私から見ると子供っぽい男気。
そんなところも可愛くて好きだけど、指摘すると怒るんだろうな。

こんなに好みなのに絶対上手く行かないのも見えている。

心に仕舞っておくね。



たかしとは会えない日々が続く。私に何があったか、欠片も知らずに。

体調が悪いという私の言葉を鵜呑みにして。
きっと暢気に穏やかに私の名前を呼ぶんだろう。にこやかに私を抱きしめながら。


彼のことだって愛しい。
私も何もなかった顔してまた彼に抱かれるんだろう。



そう別に何があったわけでもないけれど、
心の中の秘密の扉がまたひとつ増えていく。

秘密の扉
久しぶりに二人の都合が付いた。

「この間は山だったから今度は海にしよう」と、たかし。

「へい」もう顔も忘れそうなんだけどな…忙しいのは私だから、文句も言えない。
春先に私が「鎌倉!鎌倉!」と、騒いだからてっきりそちら方面かと思ったら、鋸山のどこが海なんだか。



「たかしっ!
 登ったら降りなきゃいけないよ、もう良いよここで」
「うーむ、あそこで手を振るdoorを撮りたいから君だけ登りなさい」
「ひぃぇ~」

後から来た彼と、垂直に切り立った下を眺める。海も。絶景。その後富津岬の先端にも行ってはしゃいだ。





「痩せたみたいだけど、大丈夫?」
「さぁ、測ってないからわからないけど、たかしがそういうならそうかもしれない」
微笑。
「私のこと好き?好きって言って」
「さっき言ったよ」
「言ってない」言ってない。聞いていない。いくらでも聞きたいのに。ケチ。

相変わらず私は少しも成長していない。たかしも相変わらず。もうここに何か書くようなことも当分考えられない。


今は、この瞬間は、あっという間に過去になっていく。

とても不思議なことだけど、時間を経過してみると、辛く苦しい思い出は消え、楽しかったことだけが思い出されるのだ。耐え難いと思った痛みさえ、いつの間にか消えてしまう。

過去は消えないし残るけれど、
思い出されるそれらは、どれも虹色に輝いて蘇る。